仕事と晩飯とその他

日記です。

玉稿という言葉

玉稿という言葉は本来痛いほどの敬意を含んでいたと思うが、先生といってもピンからキリまで揃い過ぎてしまった現在においては若干皮肉な意味合いも含まれているのかもしれない。というか書くほうも書いてもらうほうも、もう一度「玉稿」という言葉の意味を考えてみても良いのではないだろうか。編集者ではない俺が心配になるぐらい原稿の重みが無くなってきているような安易な出来事が多過ぎる(うちの会社ということではなく)。
原稿を本の形にしても、それが誰にも読まれないんじゃあ意味がない。作るだけで満足な筈は無い。やはり、本は読まれて初めて本になる。
だから、売るための努力というのは本を作るための努力と全く同等か、もしかしたら作る以上に重要なのではないかと、本気でそう思っている。
売るのは実はかなり難しい。もちろん、どれだけ売るのかという問題はある。100万部売らなければ売れたうちに入らないのか、10万部か、1万部か、5000部か、1000部か。数の問題は大きいほうにも小さいほうにも広がる可能性がある。最小は1部だが、それは自分が今仕事にしている「出版」とはちょっと違う。多分、100部とかも違う。
利益のことも時間のことも考えなければ100部捌くのは多分誰でもできる。無料で配れば終了だ。値段をつけるともう少し難しくなるが、それだって利益を出さなくてよいのであればなんとでもなる。
そんな話は興味が無い。売るなら利益出さなきゃ駄目だ。
本気で売って1000部あたりになってくると今の仕事と重なる部分も出てくるが全く同じではないかな。数万部ぐらいだと今の自分の仕事の範囲か。10万部もまあなんとか。100万部とか別世界だな。一度体験してみたいもんだ。志向としてはそちらだ。
何部売れたという結果に至るまでには道筋がある。少なくとも自分が考えている利益の出る出版の範囲ではショートカットはほとんど無い。
道筋のことを考えずに本を作るのは、もしかしたら「玉稿を賜る」という発想とは別のものなのかもしれない。本当に玉稿だと思うような原稿を受け取ったのならなんとしても結果を出さねばなるまい。暗闇に明かりも掲げず道無き荒野を手探りで進んで、それで結果は生まれるのか。玉稿を賜る以上はお天道様の下、まさに天下の大道を全速力で駆け抜ける覚悟がなければいけないのではないか。

書いてることは抽象的だが考えていることは非常に具体的だ。考えると憂鬱だが。