仕事と晩飯とその他

日記です。

そういう結論でいいのか、俺?

たまたま、これから沢山本を作っていくであろう若い編集者と企画について突っ込んだ話をする機会があった。

オレが普段扱っているジャンルだからということなのだろうが、部数の参考となる図書も挙げてもらった。類似企画と言えばそれまでだが、まあ、ニッチなところでの勝負だということはわかっているのだろう。手元でなかなか厳しい参考図書の数字を確認し、時に製作コストについても厳しく突っ込みながら、結局二時間ぐらい話したのかな。

途中で二度ほどぶち切れそうになった。

ひとつめは、あるコストについてもう削れないと先輩の編集者に言われたという話。

まあ、皆そう言うよ。でも、削れないを前提にしちゃいかん。削れるかどうか自分で聞いてみてダメでしたって言うならしょうがないってこともあるさ。ていうか、そういう話は多い。だけどやる前から聖域作ってたらダメだ。例えそれがどれだけ偉いヒトから言われたとしても、状況は変化することだってある。

ウチの会社でも聖域はまだある。けれど、うるさいと思われても俺が「なんとかなりませんか」って言い続けているのはたまに下がることもあるから。逆に上がることだってある。そういうもんだ。

まあ、でもベテランの編集者から「削れない」って言われたらそりゃ削れないって思うよね。実際に削る余地なんて全然ないのかもしれない。まあ、そのあたりは教えるほうがもうちょっと気を使って欲しいな。

ふたつめは、レジ前に平積みしてもらったりできませんかねって話。

いや、俺たちが今話してたのは4年間で5,000部ぐらい売れるかなって本の話で、それだってちゃんと黒字に出来るなら大したモンだけど黒字にするためにはコストだけでなく手間も含めてもうちょっと考えてみる点があるんじゃないかってことを丁寧に説明していたつもりなんだけど。

「本屋だって商売なんだよ。本屋のレジ前はもっと沢山売れてる本のための場所で、この本のための場所じゃないよ」
つい声が大きくなってしまった。

あえて一般的に売れる本ではない本を店頭に並べて個性としている店があることは分かってる。そんな話を言ってるんじゃない。作りたい本を作ることができるのは作りたいと思って作った本を買ってくれる誰かがいるからだ。作りたい本だけ作って買ってもらえないなら続けられないだろう。いや、買ってもらえなくても俺は作りたいものだけ作るって奴はこの世に五万といるがそういうのでよければ勝手にやってくれ。でも、そんなのを俺は売りたいとは思わないし売れるとも思わないね。売れなくてもいいんだって言う奴もいるし、他で稼いで作りたいもの作るんだって奴もいる。アートならいいよ。アートだって言うなら俺はそれ以上何も言わない。けど、買い手のつかない中途半端な商品作っておいて作りたいものだけ作りたいって言うのは違う。それはダメだ。山ん中で作りたい料理だけ作ってるのに行列ができるレストランとかそういう話は皆大好きだが、そういうシェフは作りたいものだけ作ってたって「それをぜひ食べたい」と思う客がいるから成立しているんだ。(そして多分そういうシェフの本当に作りたいものはお客が美味しく食べてくれるもののはずだ)

そんなことを思いながら、それでも俺は言葉を捜してこう言った。
「4年間で5,000部ぐらいっていうとこのジャンルでしかもさらにニッチなものなら別に珍しい数字じゃないけど、世の中的にはほとんど売れてないってことなんだよね」

営業の会議でもよく言ってるが、「ウチの会社では売れてます」って言うのはかまわないが、本屋という土俵では100万部売れる本も4年間で5000部の本も同じ勝負を強いられるということはよくよく頭に置いておいたほうがいい。それがわからなくなったら営業としても苦しい。本屋出身でその数の少なさに慣れることが出来ずに苦労している出版営業のヒトがたまにいる。少ない中でも利益が出せればそれでいいのだが、そこが分からないと少ないことだけがのしかかってしまう。

「まあ、レジ前はあれですけど」
冗談でしたと言わんばかりの口調であった。

ん、まあ、そう言うよね。でも、レジ前に置いたら売れるんじゃないかって本気で思ってんだろうなあ。というより、レジ前に置くのが営業の仕事なんじゃないんですかって思ってんのかも。こういうの前の会社でもあったよな。部数絞っても雑誌の返品率があまり改善されなかったって話をしてたら、なら部数増やしてもあんまり返品率変わらなくて結果的に実売部数は増えるんじゃね、と言われた。何言われたのかよくわからなくてポカーンとしてしまったね、俺は。びっくりした。返品率を減らさないと部数減らされるんですよって話の流れだったのに。なるほどこれが広告マーケティング発想の転換か(違う)。

また逸れた。

とにかく、俺は怒り心頭に達しつつも4年間で5000部の本で利益を出すためには人的コストや手間ももちろん重要だがそれ以上に直接かかるコストをもう少し見直してみるのはいかがかという話をした。ページ数とか判型も含めて考えてみる価値はあるんじゃないのかってことで。

その場はそれで終わった。

後になってから思ったこと。

考えてみると、こういう話は既に沢山聞いている。営業が頑張らないから売れないとか、もっと売り方工夫したらなんとかなるんじゃないかとか売る側にやる気が足りないんじゃないかとか。まあ、そう言いたくなる気持ちは分かるよ。売れないとやっぱり悔しいよね。でもさ、営業だってそうだよ。黙ってたって売れてる本があれば本屋で平積みしてもらうのに苦労しないけど、そうじゃない本をどうやって置いてもらうか、長く平積みしてもらうか、棚に置いてもらうか、そんな話ばっかり考えてるし日々ちまちまと実行してる。もしかしたらもうちょっと売れるんじゃないかって気持ちは常にある。もしかしたらそんなに細かい数字で引っ張るより「売れない」って見切りをつけたほうがいいのかもって思うこともある。けど、なかなかそう簡単に切り捨てられるもんじゃないよ。俺の個人的な思い入れかもしれないけど、毎週倉庫で棚詰めしてると一点一点に愛着湧いてくるんだよね。在庫無くなっても増刷できないねってことで終るのはともかく、切っておしまいにするのは本当に避けたいよ。

で、作りたいモンだけ作りたいってえのはもしかしたら買ってくれる誰かのことはもちろん、倉庫で長いこと寝かされて廃棄されておしまいって本たちのこととかそんなことまでは全然考えてないのかもなって、そう思った。

作る側や売る側が気持ちを乗せてどうこうできるのはそれに答えてくれる「買う側」や「読む側」がいるからの話だ。買う側や読む側が不在なら作る側売る側の思いなんて空回りに過ぎない。無理に例えるなら作る側売る側と買う側読む側をがっちり噛み合わせるために間に存在するギアが流通とか(出版社の)営業とかなのかもしれないが、そんな例え話はどうでもいい。

俺が今回たどり着いたのは、こんな話は今まで何度も聞いてその度に色んなことを考えて来たというのに今まではまったく思いもよらなかった結論だ。

買う側読む側と噛み合わない奴は編集者にも営業にも向いてないんだなってことだ。

そして、どうやらそれは本人の熱意とも経験ともまったく無関係だ。

熱意があるにも関わらずこの業界を去っていくヒトを何人も見送ってきた。いや、むしろ熱意があるからこそ色んなことに心を打ち砕かれ去っていく人々がいた。

今、俺はこんなことを考えている。嫌われてもいいから向いてない奴には「向いてないからやめとけ」ってドンドン言ったほうがいいんじゃないかって。若けりゃいくらでもやり直せるし、出版じゃなくたって面白い仕事なんて沢山ある。向き不向きっていうのはあるわけで、もっと向いてる仕事があるならそれを見つけたほうがいい。恨まれてもいいからそれを言っちゃったほうがいいんじゃないか。

二十歳を過ぎてしばらくの頃、新宿で深夜まで飲んでいた時、いい感じで酔っ払ってるきつい感じの若手芸術家みたいなのに絡まれた。いや、絡んだのかな。名前聞いたけど忘れた。確かにちょっとは知られた画家だったと思う。俺は随分生意気なこと言ったんだろうな。
「来週もこの店にいるから、何でもいいから作品持ってきなよ」
面白がってる表情だった。
「チャンスなんて転がってないよ。逃がすなよ」
薄暗い店の中でそいつの顔だけ光ってたような気がする。自信だったのかな。なんかにじみ出てたのかな。
「でも、誰も持ってこないんだよね」
目は笑ってなかった。瞬きもせず、俺の目を射抜いていた。

当然のことだが、持っていけるような作品などひとつもない俺はその次の週にその店には行かなかったし彼が誰かもその店がどこだったかもすっかり忘れた。本当に忘れた。

向いてない奴は早く潰してやったほうが親切なのかもね。

でも、そういう、「ヒトに嫌がられること」を進んで出来る大人ってそんなにいないよ。

あの先生は日本画家だったかなあ。あの先生には感謝してる。俺はあれ以降、随分と謙虚な人間になれた気がする。

気がするだけだが。