手作り感の陥穽
手作り感って、一歩間違うと小学校の飾りつけ的な何かになってしまうような気がしている。昔からよく言われている話だが、へたうまってけっこう難しい。手書き文字での味って本当に難しい。
なんだろう、(別に今始まったわけではないが)店頭の手作り全盛的な状況に(今さら)ものすごく戸惑いを感じている。
手書きとは違うがその根本はさして変わらない自社のパワポのPOPにもしばらく前から限界を感じている。
何も大げさに「もっとデザインを」ということではなく(自分に不足しているのはそこだということは痛感しつつ)、お客さんの方向性とのマッチミスマッチの話。ヴィレバンとかはあれで考えてやってる、と思う。昔のパルコとかもそうかな。そう考えるとセゾン文化的なもの(の一部だけど)をヴィレバンは継承しているのかもしれない。
そこまで考えて初めて永江さん(セゾン文化のヒト)がヴィレバンの本もセゾン文化の本も出していたことに気がついた。
んー、やっぱり読んでおかないとな。
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セゾン文化的な書店員さんたちとは、何らかの形で仕事でお名刺交換させていただいたりしたことはないわけじゃないけど、あまり接点ないんだよなあ。永江さんも何度かお見かけしたことある程度。ある意味、セゾンの凋落の中でもがくうち、文化とシステム、この場合のシステムはSA=ストア・オートメーションだけど、それらが、やや対立的に位置付けられてしまった感を抱いている(現場はそうでもなかったかもしれないが)。で、そのうち、パルコがリブロとくっつき、リブロが日販の傘下に入ってしまった。もっと前、セゾン文化の全盛期であれば、店頭オペレーションの方向性を明確化していく中で文化とシステムを統合できたような気もしないでもない。まあ、言うのは簡単で現実にはどこも手の感覚みたいなものとシステムを統合するのに困難があるから進まないわけで。手の作業以前を大幅に補完するものとしてのシステムを夢想しているわけだが、そんなのは本当に簡単な話ではない。そもそもそこをITで補うべきなのか否かという観点もあるだろう。
そこはそれとして、システムの対極が「手作り」と言うわけではないような気がするんだよね。いや、そう受け取るヒトがいたとして、でも、それならそれで手作りの完成度っていうのが要素に入ってくるんじゃないかなあ。
コンビニの店頭キャンペーンとか見てると、書店のキャンペーンとの差が目立つ気がするんだよなあ。決して「センスがどうこう」とかの問題ではなく。なんか、このままだといかん気がするんですよ。それは「手間ひまかける時間をもっと作る」とか、そういうことでは解決できない、なんというかある種のフィロソフィの話。
最近、そのあたり猛烈に危機感を感じています。自分自身についても。