仕事と晩飯とその他

日記です。

まだまだまだ考えているつもりだったが一度に吹っ飛んだ感じ

まだまだまだ考えているつもりだったが一度に吹っ飛んだ感じ。

リセット、リセット。

考えるためのポイントのひとつは、沢山読むことは必要条件なのか十分条件なのかということ。沢山読むことは確かに重要だが、沢山読んでもいい棚を作れない人もいるというところがポイントか。本は不思議なもので、沢山読まなければ見えてこないことがあるのは当たり前のこととして、なぜかたくさん呼んでも見えてこないヒトもいる。中身の話だけではなく、売り物としての本についてもほとんど同じ話がある。カンがいいとか悪いとかそういうことだけでもないようだ。読み過ぎてなんというか身動きの取れないニッチな方向性に向かってしまうヒトも少なくない。

もうひとつは、ひとりでやってもひとりではないということ。もう、何をやってもひとりってことはない。いや、もっと言うなら、同時代を生きている誰かがどうこうだけの話ではなく、過去からの蓄積としての云々ですらひとりでやる何かを支えているのだ。それはもしかしたら文化というものなのかも知れないし、そうではないかも知れない。

つながりということ。もたれかかったり身内としてどうこうといった関係性ではなく。仲間だからとか知り合いだからなんとかしてやろうといった関係性や親分子分的なつながりは楽だし、もしかしたら世間的にはそういう中に組み込まれることを成功とみなすような向きもあるのかもしれない。が、それとは別の話。使えるというと語弊があるが、自分が何かやった時にそれに伴って動くヒトとヒトとのつながり。一箇所に揺れると全体が揺れ動くクモの巣のように張り巡らされた関係性。本の中では調達の方法として触れられているように読めた「沢山読む」とは別にある「本屋」を支えるための重要なテーマ。「沢山読む」が頭やハートなら「つながり」(調達のための人脈に留まらない)は手足。それを否定されてしまえばできることはないという判断も有り得るように自分は思う。思うが、人的なつながりのあり方を変えることは可能だったのではないかという気持ちは拭えない。少なくともあの本を読んでいる限りにおいては。

そしてさらにもうひとつ、新たに与えられたテーマは、継承という大きな課題。完成を目指して高められたチームとしての経験はどのように継承されるべきか。一子相伝、弟子から弟子へといったあり方は美し過ぎるが、他のあり方を目指すとそれは途端にマニュアル的な何かのように思われてしまう。マニュアルが手順しか伝えないことが問題なのであればそれ以外に伝えられるべきは何か。そして、結局最後までマニュアル化できないものとはなんなのか。

その辺でもう一度考えてみよう。

それにしても見事に吹っ飛んだ。

まいった。