仕事と晩飯とその他

日記です。

まだまだ考えている。

あんまり脈絡無く話したので最初の質問がなんだったか実はよく覚えていないのですが、本の中でもあの場の話でも棚や店作りの「職人(もしくは棚や店作りにやむにやまれぬ情熱を傾けられる個人)」と「ビジネス」との微妙な距離感というか、予測はされたかもしれないが結果的に意図せず発生してしまったズレの問題を感じました。

職人が力を発揮できる「場としての書店」、それはカッコ付きの「本屋」と同様に単に物理的な場のみを意味しているわけではなく、もちろん、やってくるお客さんや地域とのつながりだけでもなく、ともに働く人々や店舗が店舗として成立するための豊かな諸々を背景に抱えているものであろうと思います。

会社という単位で場を変えた時に以前とまったく同じというわけにはいかないのは当然の話ですが、それにしても石橋さんが語ろうとしたカッコ付きの「本屋」というのはあまりに「場としての書店」と密接に結びついているのではないか。

つまりそこには個人としての「本屋」を支える下地(広い意味でも狭い意味でも)が必須なのであり、そこにこそ、個人の技量としての「大量に読む」というちょっとやそっとでは超えられない大きな壁を越えるための何かがあるのではないか。

もう少し具体的な話を書くと、本の中でジュンクの出店に対して伊藤さんが周りの人間以上に強く危機を感じる場面がありますが、あれはもちろん、賞賛される個人の技量での特筆すべき売上の商品以外の売上によっても店舗全体が支えられている、つまり、特徴のある売り場や商品だけでなく本の中で触れられた売れなくとも棚を形作るための本でもなくごく普通にテレビで話題になった本や出版社が売り出したい本も含めて「場としての書店」が成立しているという当たり前と言えば当たり前の事実について強く意識されているということであり、実はそういう「どこでも買える本」も包括した網羅性こそが新規店の強みであるということを(伊藤さんが本物の脅威として認識しているということを)表しているように自分には読めました。

同時に、それはアマゾンに代表されるオンライン書店の強みでもあり、利便性が個性を簡単に覆す可能性を考えれば、網羅性を意識した巨大書店の登場はその先にあるデータベースを前提としたオンライン書店の利用にまでつながる大きな脅威となりうるはずです。

そうした「ビジネス」を成立させる「場としての書店」までを意識していた(だけでなく実際に構築した)強力な個人としての「本屋」が「場としての書店」を再び(いや、もしかすると三度でも四度でも)構築することの難しさ、「場としての書店」は成立することが僥倖なのか、それともそれを成立させるための何かは別のところにあるのか。

奈良さんが数字の話をしなくなった、数字で店の話をしないという話題が講演の中で取り上げられました。数字の問題だけではないところで場を成立させるための何かが必要なわけですが、そのためには数字の問題、特にその多寡だけに還元しては意味がないと思うのです。それと同時に、講演会の最後に石橋さんが「マネジメントや経営についての理解や知識が不足しているところがあった」ことを反省の弁として述べられていました。経営やマネジメントの問題だけでないヒトの部分でのヒント(というよりある意味では答が)この本の中に書かれていると思いましたが、この本の中で(もっと)描かれて欲しかったのは自分にとっては数字や経営やマネジメントの問題ではなく、個人としての「本屋」を支えている人々でした。
(※そのあたりを次回作に期待したいと思っています)

長くなりましたが、質問したかったのは、「個人としての「本屋」が成立するための「場としての書店」の構築はなぜ難しいのか」です。

『傷だらけの店長』は書店を去っただけでなく「本屋」というものと「場としての書店」に縛られることなく向き合う機会を得たのだろうと思います。(新たな場所でまた再び、三度四度と、)「場としての書店」を成立させようとある意味悪戦苦闘している(していた)話とはまた少し別の話と捉えるべきではないか、自分はそのように思います。

※「本屋」は「場としての書店」に縛られないかもしれませんが、「本屋」がもっとも光り輝くのは「場としての書店」を得た時ではないかと自分はこの本を読んで思いました。『傷だらけの店長』は新しい場で新しい「何か」になって光り輝くことで内なる「本屋」の鼓動を感じるのではないか。その鼓動は必ずしも他人に伝えることを前提としてはいないのではないか、そうも思います。