仕事と晩飯とその他

日記です。

原発はロマンじゃない

誰にも止められなかったはずの経済という化けものが急ブレーキをかけた途端にありとあらゆるところが悲鳴をあげている。外食だけが経済を回しているわけじゃない。

普段からあんまり余分な消費をしない生活に慣れてしまっているので「外食しないと経済が回らない!」と青筋を立てられてもピンと来ない。ついこの前まで弁当箱が売れに売れていたのはなんだったんだろう。これを機に原発が不要になるぐらいの規模で経済を回していこうじゃないかと思う人は少なくないはずだ。

「外食で経済回せ!」に感じた違和感を自分の中でも消化し切れなかったのだが、「今こそ広告出稿で経済を回せ!」といった旨の主張を読んで自分としては何かが吹っ切れた。回す経済と回さなくてもいい経済を見極められる賢い消費者にならねばならなかったのだ。それだけの話だ。

消費が美徳であったバブルの時代がいい時代であったと回顧しているヒトはオレが思っている以上に多いのだろう。消費で経済は回る。外食はその一端に過ぎない。

貪欲な経済はありとあらゆるものを取り込み肥大化した。原子力発電もそうだったということにようやく気がついた。

原子力エネルギーの利用が科学技術の話題であるならそこにはロマンもある。そういう未来は自分も嫌いじゃない。きちんと先端の科学技術としてそれなりの扱いを受けているのであれば自分も何も反対はない。けれど、いつのまにか原発は経済に取り込まれていた。雇用の場になり、それで暮らす人々を多数生み出していた。

カーネギーの本で労組に対応する時に家族の生活から崩していくといった内容が書いてあった(原著で読んだんで訳がどうなってるかは知らない)。「ひでえ」と思ったが、原発はまさにそれをやっている。

いや、今さら気がついたような顔をしているオレは卑怯者だ。反原発なんて身近な話だったんだ。周りにゴロゴロいたんだ。でもオレはずっと知らんぷりをしていた。

今回のことでよくわかった。暴走を止めるため消防隊員や自衛隊員が命をかけなくても済むように、生活を破壊される農家を生み出さなくても済むように、口にする食べ物に子どもたちが怯えなくても済むように、原発を経済から外さなければならない。そのために経済を縮小させるべきなのかそれとも代替の何かを用意するのか。どちらが正解かは自分にはわからない。とにかく、原発を経済から外さなければいけない。

原発はもう要らない。