仕事と晩飯とその他

日記です。

教わるのも難しい

「教えられる」事柄にも関わらず「できる」ようにならないというのは何か根本的なところがおかしいのだろうか。

中学高校と6年間の「英語」の授業で「(英会話が)できる」ようになる例は少ないようだ。ただ、不思議なことに「(英会話が)できる」ようにはならないが、「(塾講師や家庭教師として英語を教えることは)できる」ようになっている例は多々見ている。学校の英語と英会話は別物ということか。

多分そうなんだろうと思うが、他の教科はどうかと思って考えてみると他も似たり寄ったりかな。国語とか、感想文とか書いてる暇あったらもっと日本語の文法とか教えてもらうべきだった。苦手だもん、今でも文法。

とても生意気なガキだったのである程度の年齢からは「勉強ってのは先生に教わったところで身にならない」と思っていたが、実際にはちゃんと「できる」し「教えられる」先生に出会えなかったのかもしれない。高校には教科書を書いているような先生もいたが直接授業で当たったことはなかった。大学に入ってからも機会がなかったわけではないとは思うが、それ以前の問題として中学高校でそんな感じだったせいで大学で勉強するための基礎(特に数学)が足りていなかったのは自分でも良く分かっている。教えるのが難しいのと同様「教わる」のも自分にとってはいまだにとても難しい。そう考えるといい先生と出会えなかったのではなく自分の「教わる」力が足りなかったということか。

それはさておき、問題は「できる」けど「教えられない」。塾講師やってる時ヘルプで来てもらった東大生が「オレにはどうしてこれ(食塩水の濃度の問題)が分からないのかが分からないから教えられない」と言っていたが、「分からない」ところが「分からない」というのは大きなヒントかも知れない。中学生の時に教師が言っていた。「分からないところが分かるということが分かるということ、分からないところが分からないということが分からないということ」まさに。高校の教師はこうも言っていた「できる奴はやる、できない奴は教える」。ホンダ先生、ボクはゴウロ君が先生の授業を聞いて「カントは馬具商の息子」とメモしていたことと、一年上の小林クンのことを褒め称えていたことしか覚えていませんよ。そういえば先生、東大のアカホリ君に小林クンのことを聞いたら「フツー」って言われました。夢ってないのかな。悲しいですね、現実は。