仕事と晩飯とその他

日記です。

アテンション・エコノミー

仲俣暁生氏の『海難記』(http://d.hatena.ne.jp/solar/)経由で東浩紀氏の『渦状言論』(http://www.hirokiazuma.com/archives/000245.html)。

アテンション・エコノミー」って? と思ったが納得。指摘としても比喩としてもうまいこと言うなあ。でも不動産業に例えるよりは「ライツ・ビジネス」として既に認識されている気もする。土地は有限だけど生み出す価値はその限界を超える。でも、ライツ(権利)はもっと不可思議な現象を巻き起こしているように思える。「知的財産」という言葉からは想像もつかないような。

最近改めて「クリエイター幻想」の根深さを感じる。文化産業において「クリエイター」の役割は相変わらず大きいのだが、それでも「創造主」としての地位に安住できている「クリエイター」がどれほど存在しているのか。「クリエイター」に対する幻想がある限り現在の形態の自費出版はなくならないし、それを原因とする粗製濫造も止まらない。「クリエイターだけでは食えない」という事情を「クリエイター」側に属していると自負している人間は敏感に感じ取っているのでヒトによっては大量に書き散らしたり自分自身で販促に走ったりする。

消費社会は「自称」を含む大量の「デザイナー」を生み出した。最近ではアメリカから輸入されたITの導入によってカタカナ仕事が爆発的に増えた。「運搬員」とか「配達員」ではなく「セールス・ドライバー」だとクリエイティブな感じがするから不思議だ。

話が逸れた。

出版や音楽、映像などといった産業の従来の枠組みに対して不満や不信を抱いている「クリエイター」は「中抜き」を考えて当然だと思う。ある意味必然か。自分は中抜きされる側だが、それはそれでしょうがない気もする。お互い勝手にやりましょうって気分が無いわけでもない。

でも、そこで感じる違和感は、中抜きするのがプロバイダーや回線業者や運送業者や代金回収を扱う銀行などに代わっただけですよ、ということと、(形のある)本を作るって事は結局印刷会社や製本会社との共同作業であり一人だけでやってるわけではないですよ、ということ。

一点モノを作っても、その素材などから考えると共同作業ですよ。現代社会において「一人で何もかも」ってのがまず幻想だと思う。何をやっても共同作業。個人の作家性にこだわるのも、あくまで共同作業があっての話だと思うんだけど、どうでしょう。