仕事と晩飯とその他

日記です。

矮小化する世界に安住することを良しとせず。

ブンゲイなんて女コドモのものなんじゃないか、って本気で思い出しているいい大人の自分がいる。昔の大人を思い出してみると本なんて読まない人、けっこう多かった。本を読んでいてオヤジにぶん殴られ本を放り投げられたことが何度かあった。オヤジはまったく本を読まなかった。本を読むヒトにルサンチマンがあったのかもしれないが、よくわからない。実家で営んでいた寿司屋が潰れて日当をもらう仕事に出るようになってからわかった話だが、オヤジはアルファベットがまともに読めなかった。漢字もかなりあやしかった。カタカナですらたまに間違えていた。ついこの前まで日本にそんなヒトはゴマンといた。いや、今でもゴマンといるはずだ。いないことになっていると思うが。

生活ってのはブンゲイやガクモンとは別のところに存在していると思う。ブンゲイやガクモンで喰ってく人々は「浮世離れ」していたもんだが、今はどうだろうか。

その「浮世離れ」した世界に子どものころは憧れたもんだが、今はちょっと不快を覚えることも多い。オレが編集者になりたくないのは地面に足を付けすぎてしまっている自分が「浮世離れ」した何かと接する時にある種の不快感を感じるからなのかもしれない。いや、それこそルサンチマンかも。

昔からそういう感覚があって、世界が自分を中心に回っていない感覚。世界は自分とは別のどこかで動き続けているような。

子供のころは大人になったら世界に巻き込まれるのだと思っていたが、40過ぎてわかったのは、相変わらずオレのいない世界はどこか別のところにあってぐるぐると回り続けている。

で、それで良かった、という気もしている。世界なんてモノに巻き込まれなくて良かったと。世界はコドモのオレが思っていたのより小さく、中で暮らす人々はその矮小さを指摘されることに怯えているのかもしれない。

多分、地面に足を付けて暮らすっていうのはそういうことなのかな、という気がする。「自称」なんたらやらなんやらが傷をなめあう「世界」とやらに巻き込まれるのはけっこうです、というかなんというか。

実家で暮らしていた高校生の頃、「ビンボーもう飽きた(そろそろ金持ちになりたいねぇ、と続く)」と言って母親と笑っていた。貧乏は飽きたからといって気軽にやめられるわけではないのだが、笑い飛ばすぐらいの余裕はあったということなんだろうか。その当時の気持ちはもう思い出せないが。