仕事と晩飯とその他

日記です。

飽きっぽい性格の人間が続けるという意味。

高木君も飽きっぽい性格だとは思うが、続けたことが居場所になっている。飽きずに続ける、これは全てにおいて秘訣なんじゃないかと思う。まあ、株式公開にでも絡んで濡れ手で粟の金でも得たら別かも知れないが。

病んでる、のかなあ、やはり。今の自分が自分でないような気がすることはオレにもあるが、世界を書き換えようという気持ちに繋がらないのはなんだかんだいいながらも現実世界と折り合いをつけているからではないか。いや、むしろ凡庸さの中に居心地の良さを見つけたのだとも言える。

創作、といった方向に向かうこと自体は良いと思うのだが、現状は創作というよりは虚言、もしくは書くこと自体がリハビリ化しているようにも思える。それはそれで別に構わないのだが、そこに何を求めているのか。自分自身でも把握できず、さらには心の奥深くに押し込めている何かがある。

N島の話ではなく、家族で焼肉の話が気になる。心の中は真っ黒だが、自分でその黒さに耐えられないかもしれないという不安感がなんとか暴走を食い止めているようだ。医者には相談しているはずだが、これほど自分の本心を明かさない患者はやりにくいに違いない。今は多分、医者すら信用してない。周囲の人間も。友人も。家族も。

開放してどうこうではなく(開放すると暴力的な方向に進むと思う、現状では)、その黒さが何に由来するのか、ゆっくりと実務的に解き明かす作業が必要だ。

ああ、そうか。それが「ササイ」や「N島」か。それならそれで腑に落ちる。が、本人が自分の底に転がっている何かに気がついていない可能性もある。いや、そんなことはないか。バランスが狂い始めていることは他人に指摘されるまでもない。

暴君、という言葉もキーワードなのかも知れない。自分自身の中に暴君的な要素を既に見つけているわけだ。

月並みかも知れないスポーツで発散というのは良いんじゃないかなあ。それも個人競技ではなく団体競技。リーダーシップをとることも一匹狼として斜に構えることもできない中で結果を見つけること。苦手だったのはタイムカードではなく、団体行動、中でもリーダーシップを要求されることだったんじゃないか。だから、団体競技の中で自分の役割を果たす、いや、それすら把握できないかもしれないが、そのうえで結果を受け入れる。右往左往していいんですよ。

単に、身体動かすと良く眠れる、というのもあるが。