仕事と晩飯とその他

日記です。

磯野家の時間感覚とゴンドラの唄

サザエさんの家では波平さんの帰宅が夜8時を過ぎると「お父さん遅いわね」と心配しているようだが、普段は何時ごろ帰宅しているのだろうか。夕飯を一緒に食べているので6時頃なんだろうか。そんなに帰宅が早いのは何かおかしい気がする。波平は本当は既にリストラになっていて毎日公園でブランコに乗って「ゴンドラの唄」を歌っているのではないか。

この「公園でブランコに乗っている→ゴンドラの唄を歌っている」というのは黒澤明監督、志村喬主演の『生きる』という映画(感動巨編。泣いた)が元になっており、ある程度の映画好きもしくは一定の年齢以上の世代にとっては例えとして何の違和感も無いのだが……。

中高年の読書離れというが、読書だけでなく映画も観ていない。文化とか教養とかいうことではないのだが、共有すべき時代の感覚として本や映画は対象にはならないのだろうか? いや、そんなこともなくて例えば大ヒット作なんていうのは読んでいなくても読んだ気になって感覚として共有されているようにも思える。『世界の中心で愛を叫ぶ』とか『冬のソナタ』とか。

それはそれでかまわないのだが、何と言うか、オレの幻想なのかも知れないが、教養として共有されるべき何かがあってもよいのではないのだろうかという気がずっとしているのだが。同時代の教養として共有される何か。教養主義とか権威主義とかいうことでもなんだけどなあ。まあ、分かりにくいよなあ。

自分と同世代(40前後)の周辺に関して言えば情け無いぐらい本を読んでいない。そうかと言って読んでるほうは読んでるほうで「本なんか読んでいなくてもいいんだ」みたいな話もわからんではないのだが、そうじゃなくてさあ、なんつうか、何でもありの結果が結局空っぽになっちまってるっていうか。

本読んでるのがエライとかは思わないんだけど、なんていうかなあ、幻想があんのかなあ、オレには。

でも誰にも頼まれていないのに勝手に「文化」を背負っちゃってるヒトなんかも違うと思うんだよねえ。「ウチの会社はいい本しか出していません」とかさあ、本気だからなんだか頭に来んだよね。で、そういうヒトといっぱい読んだ結果として「本なんか暇つぶしだし」とうそぶくヒトって通じてる気がするんだ。

本って暇つぶしよりもう少しまともな何かだと思う。薄っぺらな「文化」なんかよりも意味のある。

どうなんだろう。