仕事と晩飯とその他

日記です。

『金持ち父さん貧乏父さん』を思い出す

ここしばらくずっと『金持ち父さん貧乏父さん』を再読したいと思い続けているのだが本棚に見あたらない。

そんな思いの中で石塚さんのこのエントリ「なにも生み出さずに生きることは出来ない」を読む。多分、自分の感想は方向性が違うので噛み合わないとは思うが若干の反論はしたくなる。

1.「無理して作り出そうとしなくてもヒトは生きていける。」

アーティストをめざす連中しかいないという環境でそこをめざさない(めざせない?)凡人としていたことがあるのでそこは心の底からそう思う。作るとかどうとか、そういうことに囚われることはない。

ついでにこうも思っている。

2.「皆、大したものは作ってない。ほとんどはゴミだ。」

おまえが言うな、かもしれないが、自分はある時から「あ、ゴミばっかだ」と、心の底から本当にそう思えるようになって随分楽になった。光り輝くような何かは奇跡のような出来事で、ほとんどはゴミだ。世の中はゴミ溜めみたいなもんだ。で、せっせとゴミを作り続けた奴だけがたまに奇跡のようなものを残せる。作らないと残せない。ゴミじゃないものしか作りたくないみたいなこと抜かしてると作れない。ゴミを作り続けた先にしかゴミじゃないものは無い。

ここから自分としては二つに気持ちが分かれる。ひとつは「そうか、自分もゴミ作っても気にすることないんだな」という方向性。で、これは仕事の実践として生かされている。広告原稿もWebサイトもゴミみたいなもんだがそれでも構わんのだ。ふたつめは別の方向性でゴミすら作れない自分の不甲斐なさが情けなくて情けなくて情けなくて。→1.に戻る。

で、作ってる奴はそもそもこんなこと考えないよ。ゴミだろうがなんだろうが作るだけ。それしか正解は無い。

で、無理だと思ったら作らなきゃいい。作らない人生は灰色じゃない。ここでまた、1.に戻る。

ここまでの流れとはまったく別に、もうひとつの石塚さんへの反論。

「作るじゃなく回すも有りなんじゃないか」

ここでようやく『金持ち父さん貧乏父さん』の話に戻る、自分の中では。そしてこの感じには「アマゾンが書評を客に書かせようとしたのに対抗してbk1は書評を内部で書いた」とか「アマゾンのランキングではなく書店員の提案を」という話への違和感と通底するものがある。ちょっとひどいが、貧乏父さんなのだ、それは。そして自分も貧乏父さんでありそこから抜け出せないのだが。

その対極は、「自分で提案するのではなく提案したい誰かのための場を提供する」という方向性。

それって結局、「リアル書店 vs. アマゾン」とか、「出版社 vs. アマゾン(KDP)」とか、「新聞(書評欄) vs. アマゾン(リコメンド)」とかって話に全て通じていることにようやく気がついた。いや、一方的にアマゾンを持ち上げるつもりも責めるつもりもない。ただ、あまりに『金持ち父さん貧乏父さん』だということ。

『金持ち父さん貧乏父さん』の著者であるロバート・キヨサキの会社が破産したとかそういう話がどうこうではなく、「やる」と「やらせる」の違い、みたいな感じ。正しいとか正しくないの問題でもない。

リアルの側は提案に拘りすぎてんじゃないのかなあ。リアルでも「自ら提案するのではなく提案したいヒトの意見を吸い上げる」という方向性は有りなんじゃないのかなあ。

という流れで金曜日の新文化ブクログの記事を読み、「そうそう、これこれ」という気持ちになった。やってんなあ、ブクログ

新宿紀伊國屋本店にブクログがまた登場!「夏に読みたくなる本フェア」ご紹介

大学生協の「読書マラソン」なんかもそうだけど、売り場にもっと集合知的な方向性を盛り込んでもいいんじゃないのかなあ。ランキングなんかも元々そういう方向性だし。

読書っていうのは孤独な作業でそれを共有したりというのは自分としてはちょっと違う気もしないでもない。けれど、オススメしたいみたいな欲求があることはよくわかる。出版という事業そのものも本来一方的な下地を持っているのは事実だけど、双方向性みたいなものは昔からあるし(雑誌の投稿欄的なものとか)、そういう意味では出版社も書店も読者からのフィードバックを生かすことは無理ではないはず(自分のところの会社でそれができているかどうかはとりあえず棚上げで)。

書店員が想像を絶するような量の本を読んでその中から厳選すると言う方向性があってもいいと思うけどそうじゃない方向性もあっていいんじゃないかなあ。というより、量的なものに関してはそうじゃない方向性じゃないと越えられないのでは?

『金持ち父さん 貧乏父さん』は今でも読む価値ある本だ。

まったくまとまらないが、今さらそんなことを思っている(遅過ぎるよ、オレ)。