仕事と晩飯とその他

日記です。

もしかすると年単位での大きな話

ありがたいことに色々と声をかけていただき、数年、いや、もしかするともっと長いスパンで取り組める機会を与えていただけそう。本当に面白いしありがたい。感謝感謝。

その気持ちは本当だ。

けれど、オレの心の中では実はもうひとつの思いがある。

高校の倫社の本多先生がこう言っていた。

「できる奴はやる。できない奴は教える」

もちろん、本多先生の言葉の言外の意味は、オレはできなかったから教える側に回ったがお前たちは是非やる側に回れ、ということであった。ボクは悪い生徒なので本多先生の授業の内容はあまり覚えていません。イドラとか覚えてもなー、みたいに思ってました。すみません。

パネラーとかそんな機会を与えて頂く度に、「オレなんかでいいもんだろうか」と思うのと同時に、「オレはやる側に踏みとどまっていられるのだろうか」と、常にそう思う。

「ヒト(他人)様に何か教えられるようなタマじゃねえよ」という思いと「教えることに安住して(=スペシャリストになった気になって)やることに対して当事者とは別の視点(指導者とか評論家として上に立ってるみたいな勘違いを下敷きにした上からの視点)で一歩引いてしまわないか」とか、さらには、「自分で教えたり発言したりしていることに縛られてしまい、当事者として新たなことや泥臭いことに手を染めることに躊躇してしまわないか」という思いが俺の中では同居している。

「できる奴は四の五の言わずにやるのだ。俺の中にあるできないというためらいこそが目の前の実務に対して一歩引いた視点の素であり、他人に説明する時に客観的(なよう)に思える要素の下地となっているのではないか」、そんなことも思う。

実務に携わっている人間を相手に「体験としての自分の仕事とその過程で取り組んだことや考えたこと」を話すのはまだいい。与太話として理解してもらっても構わないし、特殊な例として大目に見てもらうことも可能だろう。けれど、そういう前提を共有していない対象に概論として諸々を語ることにはいつも抵抗がある。要はそういうことなのだが、自分にとってまさにそここそ超えねばならない何かなのかも知れないという気もする。けっこう前からそれは思っている。そろそろ「これはあくまで私の視点です」とか「あくまで私の取り組みの一例です」からどう脱却するか。

変化の時なのかも知れない。