仕事と晩飯とその他

日記です。

年末に某社の民事再生の件で思う

児童書出版の某社の民事再生の件について。

早い段階からなんかおかしい気はしていた。皆さんものすごく褒めるし応援もしていたようだが、個人的には苦しい中でも頑張っている会社があるのになあという思いもある。また、末席ではあるし大きな役割を担っているわけでもないが経営の一部に参加している身として、単なる棒引きの手段としての民事再生という仕組みには以前から納得できないものも感じている。いや、もちろん単なる棒引きの手段ではないことは承知してはいるが。

もっと前、まだ色んなことが理解できる前は、倒れる責任は従業員一人ひとりにもあると思っていた。いや、むしろ、末端の一人ひとりがもっとなんとかしなければいけない課題は少なくないのではないかと思っていた。

倒産した書店の店長に話を伺ってよくわかった。皆、ぎりぎりまで頑張っていたんだ。倒産を知った日に「もう頑張らなくてもいいんだと思ったらホッとした」という話を聞いて俺は自分の甘さを知った。

でも、まだ納得できていなかったような気がする。まだ、「それでも一人ひとりにできたことはあったのではないか」と思っていた。

倒産した出版社を建て直した営業部長が書いた「倒産は全て経営者が悪い」という独白もしばらくは意味が分からなかった。

ある日突然、「倒産は全て経営者が悪い」という言葉の意味がわかった。経営者とはそういう責任を負っているのだ。いや、従業員一人ひとりの新たな未来のためにも「全て経営者が悪い」のだ。経営者だけが悪かった。一人ひとりは最後まで頑張りきった。

そうでなければダメなのだ。悪いのは従業員ではない、経営者が悪い。そう言い切らなければいけない時がある。よくわかった。

だから、某社の不払いの問題なども一人ひとりの問題ではなく、誰かがかっちりと責任を取ってほしいと思う。新たに立ち直る過程で、誰かはちゃんと責任を取らないとダメだ。時流や状況や、まして借入金のせいにしてはダメだ。

民事再生という方法はそのためのチャンスすら曖昧にしてしまう。だから、やっぱり納得がいかない。

それと、これは直後にも思ったが、倒れないで頑張ってる会社はいくらでもあるし、本当にいいものなら他の社からまた出すことだってできる。きっぱりと退場を言い渡すことが未来につながることだってある。今回だけではなく、安易な「再生」には疑問を感じている。