仕事と晩飯とその他

日記です。

誰かの心にあるということ

オレは別に宗教人ではないので特にアレなのだが、映画と小説の『最後の誘惑』のラスト近くにパウロがキリストと遭遇する場面に色々と思うところがあった。パウロが人々に教えを伝えているところにキリストその人が現われるのだが、パウロはキリストに対して、もはや教えは私の内にあるものなのだ、という意味の言葉を伝える、という場面。
今、手元の『キリスト 最後のこころみ』(ニコス・カザンザキス 恒文社)を確認してみた。俺の記憶よりもっと激しい。つうか凄いな。凄い。狂信と紙一重の激情がパウロをしてキリストに立ち向かわせている。凄い話だ。

本当は「本は著者でも出版社でもなく読者のものなのだ」という話の例としてあげるつもりだったのだが、しまった。この本のテーマはそんなんじゃなかった。カザンザキス、さすがに焚書とかされちゃうほど迫害される本だけある。オレの薄さに反省。

でも、ちょっと近いと思いませんか? どうでしょうか。