仕事と晩飯とその他

日記です。

本を分ける

検索が出てきて便利だと思ったのもつかの間、情報が整理されないことに対する答の一つとしてタギングという便利なものが。タギングの前提としてフォークソノミーという考え方もだいぶ消化できてきたと思ったら書物の世界ではタギングと並行する形で全文検索が徐々に広がりつつある。確かに全文検索してしまえば分類もへったくれもないか。いや、そうではなくて内容だけでは分類できない諸々を取り込んでしまおうというのがタギングか。

しかし、たとえ全文を読んだとしても分類は別物。例をあげるとカート・ヴォネガットをSFに分類するか文学に分類するか、とか、経営のための統計学の本は経営学の棚かそれとも統計の棚か、とか、ナンシー関のコラム集はテレビ関連なのかエッセイなのか、とか。そんなわかりやすい例だけでなく内容が分かってもどうにも分類しにくい本は多数ある。タグで個人の意見を集約すると言ってもそれで本当にいいのかという疑問は常にある。

そのあたりに編集や出版の意味合いを探す方向性もあるし本屋の棚の特徴も分類(棚)によって活きてくるという見方もある。職人芸は別としても、形となった紙の本を書店の店頭で並べる(分類する)ための情報と方法論についても既に今までに色んな情報や方法論が提示されている。が、なかなかうまくいかないのはなぜなのか。うまくいかないから諦めるのか、それとも何らかの手段と方法を模索するのか。

一つの本に一つの分類ではうまくいかないというのはかなり大きいように思う。Cコードなんか棚に並べる参考にすらされてないような……。カバーや本体に印刷してしまうと修正が効かないというのもあるのかなあ。そう考えるとスリップで、というのはやはり分類を表示するための手段としてはなかなか有効だ。それにしても分類は一つが前提か。ICタグだと情報量によっては色々できそうだが最初に固定してしまうとカバーに刷り込んだのと変わらない。

やはり一元化された本のデータベースに分類をぶらさげてバーコードやQRコードをケータイやハンディターミナルで読み込むと分類を含む詳細情報が表示される、とかいうのがいいんだろうか。でも何らかの読み取り機器がないと分けられないっていうのはどうかなあ。

つうかケータイだろうがハンディターミナルだろうが機器を使わない方向で考えられないものか。やっぱボウズかなんだろうか。