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日記です。

ケータイ小説の仮説(未検証)

現時点で一冊も読まず、新聞雑誌などから得た知識だけでケータイ小説について勝手に仮説を立ててみた。後で検証できるようにMEMO。

発表する媒体の変化によって文体(文章そのもの)が変容するという事態はネットやブログでも同様のことが起こっているが、ケータイ小説の場合は文体の変容が受け入れられたというより、元々なんらかの下地として用意されていた文体なりにケータイという形態(小さい画面=文字数の制約・改行の多用など)が適合したのではないかと思われる。

元々用意されていた下地として考えられるのは漫画、中でも少女漫画、さらに具体的には「ホットロード」的な方向と前髪を伸ばしたロッカーがギターケースを背負っている系統の少女漫画ではないかと思われる。

つまり、ケータイ小説とは上記のような漫画のもう少し成長した姿(リアリティというより、少女マンガでは描けない性の問題が含まれているから)を、漫画のフキダシに該当するセリフの部分とモノローグを中心に書いたもの、ということになるのではないか(というイメージ)。

セリフには流行歌などの影響が大きいと思われる。ある世代にとってはわずかな言葉だけで充分にイメージが喚起できるキーワードが連なっている(と思われる)。書き手と同じ世代に属するものにとってはそれ以上の説明を必要としないが、上の世代に取っては理解不能、下の世代にとっては「憧れ」の対象となりうる(んじゃないかなあ)。

ともかく、ケータイ小説は少女漫画から絵を抜いてフキダシとモノローグを中心に書かれたもの、なのではないか。それであればミリオンも不思議ではない。さらに言うならば、セリフが世代を限定しているので陳腐化が早いと思われる。

漫画そのものを描く労力の問題もある。フキダシとモノローグだけであれば書けそうな気がしてもおかしくない。

読みやすさやセリフの多さだけで比較対象として赤川次郎の名前があがることがあるようだが、赤川次郎はミステリーからジュブナイル小説的な読みやすさをめざした結果として「ものすごく読みやすい」にたどり着いたと思うのでまったく別物。

読者の変容、というか漫画的な表現があらゆる表現の前提となりつつある。漫画的な表現のための文章というモノはあるような気がする。

主語は、代名詞で書くと翻訳調、なるべく省略すると文学風、常に固有名詞を書くのが通俗小説流、なのだそうだ。