仕事と晩飯とその他

日記です。

声に出して読みたい未来型日本語

『内側から見た富士通成果主義」の崩壊』を声に出して読むとより楽しめることを発見。妻に読み聞かせていたら途中でおかしくなって止めたが、英語の勉強にはなるかも、いやマジで。でも、英語がうまくなる前にルー大柴みたいな喋りになりそうな気もするが。

Webに限らず勉強し続けないとキツイのも事実ですが、そろそろ勉強するのに疲れ始めてきているのも事実。そして「勉強」と称して中途半端なことをいつまでやり続けるのか、そろそろ自分の身の振り方を考える時期に来ている気がする。特にWeb関連に関していえば、会社のページとして公開する以上、自己満足で済ますわけにも行かない気もするのだ。個人のページなら許されるかもしれないが、会社のページで「勉強中です」ってのはどうなんだろうか。一般に公開する以上は同じ土俵で判断されるわけで、そういう意味では「勉強」が自分自身に対する基準を低く保つための言い訳になっている気もしている。などと自分のことについて猛省している。

まったく同様に、本屋で売るための商品を扱っている以上、会社の大小は関係ないと思っている。同じところに置いてもらっている以上、「ウチは零細だから」では済まされない何かが必要だ。

とか、そんなことを考えるとどんどん厳しい基準にいってしまってもおかしくないのだが、自分は最近逆に「これで良いんだ」という気もし始めてきている。というか未来型日本語表記も口述筆記も協力出版も人気商品の買切もメモ書き推奨本も何でもありなんじゃないのか、この業界は。拘ってるオレがバカで融通が効かないだけなんじゃないのか。昔から、取引の問題で零細書店や取次に嫌われたり文句を言われるような出版社のほうが「読者」からの支持は高かったりする。I波しかり、S潮社しかり、B藝春秋しかり、Aスキーしかり、Dアゴスティーニしかり、G冬舎しかり。書店や取次との円滑な関係なんて、実はさほどの意味もないのかも知れない。パブラインでメモ書き推奨本の実売と在庫を見て絶望的になった。K國屋書店あたりが率先して動かないってことが何か本質的なことを表しているような気がしてならない。

良心とか拘りとかは金になって始めて主張できるものなのだろうか。

太った豚になることについて煩悶できた時代はもう帰って来ないのだろうか。