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日記です。

紙の必然 その2

紙であることのメリットとして、電子に比べて経済的な流れが出来上がっている、というのはある。内容とか使い方とは全く別に、紙だと金にできるが電子だと金に出来ない(しにくい)ということ。ケータイ小説も、ケータイ小説サイトは広告モデルで設けられるかもしれないが、個々のケータイ小説に利益を生み出すためには紙の本の販売というビジネスモデルが必要だった。

だけどそれだけじゃ課金の問題が解決されたら紙のメリットは何もなくなるということか?

本当にそうなのか?

課金の問題とは全く別の紙の必然、内容だけでなく、もっと違う点において。学習の過程における紙の優位性というのは無いわけではなさそうな気がする。記憶の過程で手を動かすということ。ただ、それはDSの脳トレ系でも散々言われている。読んでる途中で書きこめる。それは技術的な課題で何とかなってしまいそうだ。斜め読みできる。これはモニターの特性を考えると紙のメリットに思えるがこのあたりも機器の性能や技術によって変わりそうな気がする。バッテリーが切れないのは確かにそうだが、今のソーラー電卓なんて電池も充電も不要だよ。だからそれも多分、技術の問題だ。

紙のメリットはなんだ?

学習系の本は電子よりも紙のほうが良いのではないかと思う人が多いのではないかと思う。なんとなく、でしかないのだがその何となくの理由を知りたい。画面の精細度とかではない、別の理由はそこにあるのだろうか。

不便だ、というところが逆に学習性を高めているのではないかという気がしないわけではない。映像は概念の把握には有用でも数式を含んだ概念の理解のためにはあまり向いていない、というのと似ている気がする。

どうも紙は単なる一方通行ではないような気がするのだ。ひっかかりが学習性を生み出しているのではないか、そういう気がする。映像に限らず、ひっかからない方法は学習の効率が良さそうに見えて実は深く刻み込まれていないような、あくまでそんな気がするだけだが。