仕事と晩飯とその他

日記です。

作った後しかできない、のか?

「作った後には何もできない」ってことについてまだ考えてます。

じゃ、書店回りとかしたらどうでしょうか、ってのも思うんだよね。そういう出版社も大小問わず有る。でも、そうやって自分の作った本を自分で売るって方向に行き過ぎると会社勤めの編集者って言っても個人商店みたいな感じになってきて、結果的に「オレのワタシの作品が」って思い入ればかりが空回りする方向に向かっていくのが怖いのよ。

「(編集は)作った後には何もできない」、という論点からすると、「(営業は)作った後しか関われない」もしくは「(営業は)自分が作る過程には関わってない商品を売らねばならない」ってことも言えるのかなあ。なんかそれって最終的には責任を押し付けあう口実にしかならないんじゃないだろうか。

営業が企画段階だけでなく途中の過程にも関わるという出版社も少なくはない。そこでも「オレのワタシの作品」的なところにはまってしまう危険性は常にある。

常に思っているが、営業やってる以上はガタガタ文句抜かさずに黙って売るのが仕事だ。でも、時には「オレにはこんな本は売れねえな」ってことがあってもおかしくないとも思っている。

「オレのワタシの作品」で何がいかんのか? って言う人もいそうだが、例えばの話として、誰も待ってない「オレのワタシの作品」に付き合わされる身というものを想像して欲しい。いや、正確に言うと作者のみが待望している作品に付き合わさせられるという状態。それはアートだとか言う人もいそうだが、自分の制作欲としてしか昇華されない「作品」のほとんどは他人からみたらゴミです。それでも全部がゴミと言い切れないところに神話が成立する隙間があるから話が複雑になっちゃうんだろうな。発表するための手段を持たない場合で、自分でもゴミだと思ってたものが別の人から見るとアートだったとか。でも、たとえ一生をかけて積み上げたそんな作品であったとしても消費する側からしてみたら多数の中の一つに過ぎないんだ。残酷ではあるがそんなもんだ。同様に今持ち上げられている物だってそのうちほとんどが忘れ去られる。

時代を超えるような作品をと言う努力には敬意を払いたいしそういうことに関わりたいとも思うが、それが日々の糧を得るための仕事として成立するのかどうかはオレにはわからない。