仕事と晩飯とその他

日記です。

戦争映画2本

映画の感想ですが、ネタバレあります。


レンタルで『ブラックホーク・ダウン』(二回目)と『アメリカン・スナイパー』。

ブラックホーク・ダウン』は初めて見た時より落ち着いて見ることができた。相変わらず怖い。市街地で、しかも安全地帯はすぐそこなのに。ああ、でも、そういうのはどの戦争でも一緒で、ドンパチやってるすぐそばで案外と普通に暮らしていたりするのだろうなあ。

アメリカン・スナイパー』、結末を知っているのに思わず泣いてしまった。不思議だ。アメリカで大ヒットしただけでなく、この映画を悪く言うのを許さないみたいな雰囲気が醸成されたのってなんかちょっとわかる。この映画は正義を描いていると思う。アメリカにとっての正義。監督のクリント・イーストウッドが一貫して共和党支持者であり海外派兵に反対でありトランプ支持であるというのもよくわかった。これでは正義の味方が犬死だ、という視点なんだろう。それはそれでわからないでもない。が、何か引っかかる。

ブラックホーク・ダウン』では暴徒(なのかな?)にも何らかの理由があることが示唆されていた(僅かではあってもそういう部分はあった)。けれど、『アメリカン・スナイパー』にそれはない。なんというか、「理解し合えない」というより、「別の世界と交わること自体に意味がない。だから、幾ら正義がそこで実現されたとしても無意味だし意味はない」といった感じ。

前者が過去の戦争映画や娯楽映画の文脈も踏まえたうえで正義についての判断を保留しているのに対して後者は明確に正義を顕現する存在としてのアメリカ軍を描いている。

そう、とにかく正義なんだよな。正義と悪しか出てこない。

戦争ジャンキーみたいな症状というか現象についても暗にほのめかされている描写はあるが、それも全編を貫く「前提としての正義」によってなんだか逆にぼやかされてしまった。

比べるものでもないとは思うが、自分は『ハート・ロッカー』のほうが好みだ。あの映画では「生きている実感」はあっても正義は特になかった。敵も味方も(もちろん主人公も)間違いや思い込みだらけで、なんの結論も正解もない。そして、主人公にとって生きている実感は戦場にしかないことだけははっきりと示されていた。

アメリカで公開された戦争映画として『アメリカン・スナイパー』に興行成績で抜かれた『プライベート・ライアン』の冒頭、ノルマンディー上陸の場面はやっぱり戦争映画としては群を抜いているのだなあ。あれ超えるとしたらドキュメンタリーか。ヒストリーチャンネルで見た硫黄島のドキュメンタリーは悲惨だった。『プライベート・ライアン』はバリバリ娯楽映画というかリアルな描写を抜かすと一昔前の戦争映画の雰囲気だったけど、戦争そのものの悲惨さとか無意味さみたいなものについて考えさせられるところはあった。やっぱり歴史にならないと振り返れない部分っていうのはあるのかもしれない。現代の戦争は未来の映画ではどう描かれるのだろうか。

次は古い映画にするかな。公開時期バラバラだけど『バルジ大作戦』とか『遠すぎた橋』とか。『バルジ大作戦』ではドイツ軍は連合軍の敵ではあってもパンツァーリート歌ったりして案外格好いい存在としても描かれている。まあ、そういう格好つけてる格好よさみたいなのを泥臭い感じのアメリカ兵が打ち破ってくって流れではあるんだけど。『Uボート』とかもそうだよなあ。皆で歌ったりしてるし、ジブラルタル海峡突破とか手に汗握るからなあ。『アメリカン・スナイパー』が描く対テロリスト戦にそういうのは無いな。唯一、敵のスナイパーにそういうのがあるかと期待したけど。まあ、そういう映画じゃないっていうことなんだろう。