仕事と晩飯とその他

日記です。

年内の宿題が急増。

年内にデータベースの云々を片付ける方向で。面倒だが、しょうがない。一時的に面倒でもその後が楽になるのだから、ここは頑張りどころだろう。にしても自分も含めてヒトは一度やり方を決めるとよほどのことがない限り変えたがらないもの、なんだろうか。

以前、子供の足指の間が水虫状になった際のこと。病院に行っても理由は特に分からず妻はぶつぶつ言いながらクスリを塗っていた。ある日「靴が小さいんじゃないか」ということに夫婦で気がつく。子供に確認するが「そんなことない」の一点張り。そうかと思ったが、とりあえず靴を変えてみることに。靴屋に行くと、二つぐらい上のサイズでぴったり。つまり明らかに今の靴は小さかったわけだが、娘は「そんなものだと思っていた」せいで気がついていなかったらしい。

大人も全く一緒で、やり方を変えてみて初めて従来のやり方の無理に気がつくことも多いんじゃないだろうか。もちろん合理的に判断できることが望ましいが。

現状のやり方に明らかに問題がある時は合理的に判断できるが、問題は変える以前の方法で既に快適だと思っている場合だ。「これで充分なのになんで変える必然性があるわけ? いや、もし必然性があったとしても、これはこれで快適だから無理して変える必要はないんじゃないの?」

いや、そこまでいけばまだましか。ウチの子供のように、問題そのものの存在を意識することもないわけだ。そういうことは意外と多いのかもしれない。当たり前を疑うこと、口で言うのは簡単だが自分に置き換えてみると難しい。概念ってのは言語化されないと認識されない、んだったか(うろ覚え)? やはり中年ももっと本を読まねば。